夏の日射しに照りつけられた、磐梯産の中腹‘雄国’。

 蕎麦の種まきの為の、畝作りの最中、泥だらけの手で受けた携帯電話はKさんから。
「矢部さん、もうこれ以上私が間に入って話しをしても埒があかないから、矢部さんが直接行って話しをしてきて。」
 のらりくらりと、どっち付かずでいた“ミコノス行き”確定の瞬間です。

 お客様のKさんの、お知り合いのカナダ人L氏、そのL氏の友人のモナコの造船会社のオーナーX氏。このお話は、
「X氏の建造中の船の竣工に合わせ、日本料理の職人を呼び‘天ぷら、すし’を船上パーティーで出したい。」
というもの。X氏→L氏→Kさん→K社長(以前勤めていた店のオーナーさん)という順番で、矢部に話がきました。
 K社長から矢部に「誰かモナコに行く職人さんいない?」
 ちょうどYという後輩が横浜の料理屋を辞めたいといっていた。このYは以前バルセロナオリンピックに合わせてスペインの新規開店の日本料理店で働くはずだった、が、ドイツでの研修中にスペインの話しが潰れ、そのまま2年くらいドイツにいたはずだった。
「ちょっと心当たりがあります。」
 K社長もYを知っており、
「それなら話しを聞くのに、皆で一度食事をしましょう。」
 祝日、確か4月29日。芝の高級フレンチでK社長、Kさん、矢部、Y、内の二番手、妹尾、5人で会食。この妹尾もスペインのセビリヤ、イギリスロンドンの和食店で海外生活を経験済み。 
 大まかな内容をKさんから聞き、美味しい食事に、話しもはずみ、海外の名店の数々に話しが及ぶ。
 食材、調理法、作法、習慣。
 気がつけば私一人 ヨーロッパはおろか、海外に行った事もない。飛行機に乗ったのは、三宅島からのYS-11と北海道のスキーツアーでの2回だけ。これまでに海外で働くという選択肢がなかった事を残念に思い、若い時に海外へ行ってこられた彼らをうらやましく思う。
 ご自身の海外での仕事内容、ヨーロッパの季節ごとの食材、文化、そしてワイン。ごく当たり前のように‘さらり’と話題にのせ、スマートに食事を進めるK社長。サービスのスタッフと今日の食材の産地、調理法を相談しながら料理を組み立ててくださるKさん。我々3人が少しでも多くの料理を食べられるよう気を使っていただき、「お勉強してね」と、一言。
 緊張しながらも、実に楽しく充実した時間でした。
 とりあえずYも今の店をすぐ辞めて行ける状態でないらしいが、大変興味深いという事だし、Kさんに給与、休日などの条件と、モナコに渡る時期とどれくらいの期間なのか、を聞いてもらう事に。
 その後、Kさんから「Yの造る料理を食べてみたい」との連絡が入る。
 横浜は遠いし、矢部の店でYに造らせるしかないのか、などと考えるうち、矢部の心の中に、“うらやましい、行ってみたい”という思いが募ってくる。

 5月中旬、K社長に別件でご挨拶に伺うし、モナコの途中経過も報告。その際、チョロリと“行ってみたい”などと漏らしたところ、
「矢部さんが行ってくればいいじゃない。半年とか条件を付けて。自分の店なんだから思うようにした方がいいよ。協力するから。」
 思わぬお言葉。
 店をほったらかして海外へ、などとおしかりを覚悟の上だったのですが・・。矢部がいない間、妹尾に任せて K社長はお客として店を盛り立ててくれるとの事。しかし、優柔不断な矢部は、言い出したくせに8割方行く事はないだろうと考えていました。
 数日後、打ち合わせでKさんに話したところ、
「矢部さんが行けるなら、それが1番よ」
 Yの料理は食べた事ないし、矢部の料理なら推薦したい。モナコの造船会社のオーナーからの話しともなれば、しっかりした者に行って欲しい。早々に矢部の履歴を書くように言われ、友人のカンに英訳してもらいKさんにお渡ししました。
 この当時‘大木戸 矢部’は新宿御苑近くに店を構えてから3年目、10坪15席の店内は連日予約で埋まり、かなりの賑わいをみせていました。調理場は2番手が石井から妹尾にかわり、続いて久保、杉山というメンバーでした。

 6月になり、KさんとL氏のやり取りでは、モナコでの船の竣工が遅れ、おおもとの話しが延期となった由。
 が、しかし・・・
 L氏が「Kさん推薦の料理人ならヨーロッパで働く所を紹介するから一度会いに来なさい。」と言って下さっているらしい。しかも、L氏は自分と家族の為に専任のコックを雇っていて、
「この夏で契約が切れる今のコックの替わりを探している。日本人は器用でまじめだから2〜3年契約でどうだ。」
 などと、話しが次々と進んで行く。

 7月になり、矢部に興味を持ったL氏がKさんにメール攻撃を仕掛け、Kさんから矢部は「どうするの?」と詰め寄られる
「とにかく、矢部さんの希望の条件を伝えてほしい。一年が無理なら半年、例えば4月から9月までなら可能とか。後、店を抜けて出かけるのだから報酬もちゃんと提示して欲しい・・・」
 と、そんな事を御常連のお客様にお話しすると、
「そりゃ、面白いから行って来なよ。半年なんてすぐだし、まだギリシャへは行った事がないから遊びに行くよ。」
 決断力に乏しい矢部も行ってみたい気持ちが6割位に高まり、7月の日曜、Kさんと直接お会いして話しを詰める事に。
 とにかく、一度L氏に会いに行く。パリにマンションを持っていて、ギリシャと頻繁に行き来しているようなので、8月お盆休みに強行3〜4日でパリに出かける。その日程でL氏の都合が付くか確認してもらう。
 せっかくの機会に、後で行かずにしまった事を悔やむより、とにかく行動を起こす。料理(国籍、ジャンルを問わず、もちろんワインも)に精通されているL氏の側にいるだけでもいろんなことを勉強できる。海外の日本料理店で働くのではなく、現地で手に入る食材を『和』の知識、技術で何かを創りあげる。普通海外勤務は2〜3年契約だそうだが、矢部の希望は4〜9月の半年と伝えてあるし。
 L氏に矢部の資料を送るように言われ、掲載された本、矢部の蕎麦打ちの本などを送る。この際、ギリシャの郵便事情が悪く届かない可能性が高いので、Fedexで送る。横文字でL氏の指示された会社名や記号をかき込む。
 その後Fedexの事務所から、「カナダの会社ですが・・・」

「矢部は蕎麦の職人らしいが料理はつくれるのか?矢部が働くのはパリでなくミコノスなのだから、ミコノスにこなけりゃだめだ。8月はパリにはいない。」
 無理もない、送った資料はほとんど蕎麦の特集に掲載された記事だし、“名人に習うそば打ち・矢部久雄”という本まで出しているのだから。
 それにしても、ミコノスなんてどこにあるのだろう・・・。
 「ギリシャ」のガイドブックを買いに走る。

 8月初め、‘日本の蕎麦と食文化を守る会‘の集まりで喜多方に赴き種まきに参加。長靴に鉢巻き、用水路の傍らで水音を聞きながら、9月中旬に初の海外遠征を行う事を決意したのでした。

 一方店では、運悪く久保が体調を崩し、検査の結果‘ヘルニア’脱腸と診断され手術が必要だとの事。お盆あけ、8月下旬に入院、手術する事に。一人少なくなっても仕事は減らない、忙しさに拍車がかかる中、航空券の手配はKさんにお願いし、持ち込む荷物の段取りを始める。
 そして、今回の出張で一番気になる事を確認する。
「矢部は日本語しかわかりません。」
「OK、心配するな。」
 出発が決まり、まずは成田エキスプレスの指定券を買いに。窓口で「新宿→成田空港」と言うと
「第一ですか第二ですか。」
「・・・・わかりません。」
 先行きが大変不安です。国内で、日本語でこれだから。

  ギリシャのガイドブックにはタラモサラダ、蛸の唐揚げなどギリシャ料理が何品か載っていたが、‘エーゲ海’の海の幸を焼いたり煮たりと、あまり手の込んだ物はない。
 ミコノスで料理をするに当たってまずは食材の調達、魚、貝、海老、蛸、このあたりは心配する事は無いであろう、野菜はなにかしらあるだろうし調味料が問題だ、でも現地の食材を使って作る事が面接の目的だし・・。狂牛病の影響で肉類は控えめにして・・鰹節、味噌、醤油、米、そば粉、打ち粉、薄力粉、それに包丁、蕎麦打道具・・。
 L氏からは、
「矢部の思うような物はここにはないから、持ってくるように。山葵、海苔、紫蘇の葉、梅干し、あずきは是非持ってきて欲しい。それから矢部が持ち込む物はすべて矢部個人の為の食料であり、健康の為に必要な物だ。」とメールが届く。
 現地調達の食材で作るつもりが・・・
 初めての海外旅行、一人旅、乗り継ぎ2回、英語わからない。ツアーにさえ参加した事のない、国際空港搭乗手続き初デビュー。大丈夫なはずがない。
 しかし、Yが言うには
「制服来た人の腕をつかんでチケットを握りしめ、目の前に突き出せば連れてってくれますよ。」
もう既に‘賽は投げられた’ 出発はもうすぐだ。

 とにかくまずは、荷物の整理。
 黒豆(蜜焚き)、ビン詰にした梅干し、当たり胡麻、梅肉、山葵は大きめのビンに入れ水も入れて「これはピクルスです」と言おう。味醂、醤油、薄口醤油はペットボトルで、紫蘇の葉はビニールにくるんで着替えのなかに。あと乾物でワカメ、椎茸、焼き海苔、削り節は圧縮袋で空気を抜いて500グラム、手土産に八海山の大吟醸チタンボトル。
 あれやこれやとボストンバッグに詰めこんでみたところ、海外に何度も逃げ出している妹尾が
「これは重すぎてだめです。ビンも割れる事があるので手荷物の方がいいです。」   

 出発前、K社長からは餞別と電子辞書。Kさんからは餞別とヨーロッパ食の文化歴史の本と、ラルース食材辞典という本をいただく。
「L氏に見せれば調理法や食材を指定してくれるかもしれないから・・。」

 出発は2001年9月6日。7、8、9とミコノス滞在で11日に帰国。
 出発当日午前4時、初めから荷造りのやり直し 大きなスーツケースとリュックに詰め込みどうにか新宿8時発の成田エキスプレスに乗り込む。
 準備期間中、まわりの皆は大丈夫なのかと心配している様でしたが、本人はあまりの忙しさに準備もままならぬまま 半ば夢心地で(睡眠不足が続いてまして・・)不安を感じる余裕も無く、空港への電車で眠りこけていました。
 ずっしり重みのあるスーツケース。肩に食い込むリュック、天幕山行のリュックの重みから判断すると、20kg位はあるだろう。空港カウンターで搭乗手続きの際、このままでは超過料金がかかってしまうとの事。27,5kg あと3kgなんとか減らさねば。
 空港の片隅に陣取り、荷物を全部開け、再び荷造りのやり直し。お米3kgをなんとか手荷物に詰め込み、計量を無事通過。
 肩に食い込むリュックを背負い、ときめく胸を踊らせて初海外のゲートをくぐったのでした。

 9月6日13時発 日本航空407便

 すでに手荷物の範囲を超えたリュックは棚にも足下にも納まらず階段付近へと預けられ、これまた平均値を超えた身体を、噂に聞いたエコノミーの座席に押し込んで、ふだんは15時間程立ち仕事をしているのですが、これから15時間座り続けることに・・・。
 座席は通路側、前は壁になっており足を伸ばすにもちょっと窮屈。こんなに沢山の人が乗っている、こんな鉄の固まりが空を飛ぶ、しかも11時間も。
 Kさんに頂いた本を読まなければ、と思うのですが・・・。ついついビデオを見てしまう。何より眠たい・・・。
 バッゲジタグにはフランクフルト、アテネ、ミコノスと書いてあり、もしかしたら荷物はミコノスで受け取るのだろうか?でも旅行会社からは「アテネで荷物を受け取り,入国審査を受けて下さい。」と言われたし。客室乗務員さんに聞いたところ、勉強不足で解らないので地上勤務に確認するよう言われてしまった。
 機内では何をするでも無く、サービスのお姉様からアルコールを頂きうたた寝をする。ただ出発がスタートではなくDeperture、到着がArivedというのが新鮮な驚きだった。中学、高校の授業では習った覚えがない、きっと食あたりで欠席したときにパスしてしまったんだろう。と、戴いた電子辞書をたたきながら呟いていました。
 機内は8割方日本の方、フランクフルトに到着しても、あまり緊張感がないのですが、まずは地上勤務の方に荷物の行方を聞かなければ・・・。

 11時間のフライト フランクフルト着9月6日18時

 空港内を重いリュックを肩に、金髪の女性職員に
「エクスキューズミー」
「日本語でだいじょうぶですよ」
 本人はあまり緊張していないつもりでも、表情には危機迫るものがあったのだろうか、金髪のお姉様は優しく日本語でお話ししてくれました。やはり荷物はアテネで拾って下さいと。
 そして、この会話を最後に日本語と言う存在は何の意味も持たなくなりました。
 ターミナルの移動、搭乗手続き、トランジット、なんだか解らないけど航空券を制服の人に見せればアテネ行きのゲートまで連れて行ってもらえるはず・・・。
 けれど現実はそんなにあまく無い。最初に見つけたインフォメーションでチケットを見せて
「アイ ウォント ゴォ オリンピクエアウェイ」
 返事は両手をひろげ手のひらを上にむけて首をすくめる。この仕草は
「 わ・か・ら・な・い ・・・・・。」
 これ以上ここで聞いても無駄だ、なにしろ中学英語くらいの知識でしゃべっているつもりだが、相手が言っている事がまるでわからない。
 ターミナルのあちこちをうろうろしながら、モノレールでターミナルの移動をしなければいけないらしい事をやっと理解する。動物園の熊のごとく、半径50mの範囲を行きつ戻りつ、トランジットなるものを探す。
 なんだかわからないうちに係員のいるゲートを通り、その際パスポートを見せろと言われる。やっとアテネまでの出発ロビーと便名は確認できたものの搭乗手続きが分からない。どこかに日本人がいないだろうか。すがる思いで人ごみを眺めつつ、やっとの思いでオリンピック航空のカウンターへ辿り着き搭乗手続きをすませる。
 しかし試練は次々と襲い掛かってくる、手荷物検査で中を見せろと言う。リュックの中はビンだらけ、しかもタオルで包んだり緩衝剤を巻いたりビニールに入れてあったり、そのうえ米3キロを押し込んであるので簡単には出てこない。
「ジャパニーズ ソルティープラム、スウィートブラックビィーンズ、セサミペースト、ピックルス・・・」
 人間追い込まれると、自分では信じられないくらい強くなれるものだと実感する。
 身振り手振り、カタがな読みの英語、悪戦苦闘の末どうにか通過、フゥ〜と溜息をつきながら搭乗ゲートへ辿り着いたのでした。
 しかし、この辺りだろうという位で確たる証がない。
 その時、となりのおばさん(外人です)が「アテネ・・・」という言葉を呟きながら係員と話している。これだ、この人のそばにいれば大丈夫なはず。

 19時50分発 オリンピックエアウェイ170便

 飛行機の座席は左右に2列、乗客は50人位だろうか、小さめのジェット機。フランクフルトからアテネまでの3時間半、回りは全て異国の方々。
 昔、高校の美術室でヘラヘラしながら教室を歩き回り、制服の裾で石膏像を引っ掛けてしまった。倒れ行く石膏像を視線の片隅でとらえ、床の上で砕け散る音で頭は真っ白に・・・。壊れた像をデッサンした、手元のスケッチブックをぼんやり見つめ続けていた。
 今回りには・・・あの時の顔と同じ 目・鼻・くちびる。
 機内食にはヨーグルト、鶏の煮物、パン、ギリシャのフェタチーズ、あまり美味しくない。 

  9月7日 0時50分 アテネ着

 時差とサマータイムでいきなり夜中になってしまい、ドッと疲れがでてきたのに、荷物は出てこない。初めての旅でいきなりロスト&ファウンドのカウンターへ。
 で、順番を待つ事1時間半。
 静まり返った空港ロビーで変な東洋人一人、身振り手振りで荷物が出てこないと説明する。バゲッジタグを見せると、荷物はミコノスで受け取れとの事。
 だから何度も聞いたじゃないか・・・、N航空の職員の皆様。疲れた足を引きずり異様に張り詰めたリュックを肩に、入国審査へと。
 時刻は夜中の2時半、少し肌寒く感じジャケットを羽織る。パスポートを引っぱりだし、ゲートらしき所で身構えるのだが、・・誰もいない。
「誰かいますかー、このまま行っちゃいますよー。」
 と心の中で叫びつつ空港内へ。
 アテネ エレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港は3年後のアテネオリンピックに向け新しくなった為、日本の旅行代理店には空港内の詳細図が無く、国内線への乗り替えは着いてから確認して下さい、との事だった。
 初めての海外一人旅には詳細図もガイドもへったくれもない、行き当たりばったり。とにかく前へ進め。ミコノス島へたどり着く事が最優先なのだ。
 大きな電光掲示板にミコノス行の便名と時間、搭乗手続きのカウンター番号が 分かりやすく書いてあり、ひと安心。しかし、カウンターの窓口はしまったまま。空港内の椅子は既にほとんどが埋まっている。重い荷を背中に広い空港内をうろつき自動両替機を探す。日本の1万円をそのままギリシャ通貨‘ドラクマ’に替えられる。現地の通貨を握りしめマクドナルドや喫茶店に入ろうか悩みつつ、やっと空いた椅子をやっと見つける。機内で出されたペットボトルの水を飲み手足をのばす。 
 まだ暗い4時30分、やっと人だかりがしてきたカウンターで搭乗手続きをすませ、出発ゲートへ。 搭乗ゲートの待合室の椅子は一つずつ肘掛けで仕切られておらず、横になればベットの様に身体を伸ばせる。
「はぁ〜〜〜〜。」
 久しぶりにぐったり寝そべる。時計のアラームを5時50分に合わせ目を閉じる。

 ゲートから飛行機までは、バス。ほんの少し赤みをさしてきた空の向こうにうっすらと山並みが霞んでみえる。
 タラップをあがって乗り込むのは、プロペラ機、

 9月7日 アテネ発 5時50分 

 エーゲ海に浮かぶ3,000の島の中でもその美しさは一番だとか・・。
 日の出の頃、飛行機はミコノス上空に着き、窓からは朝日に輝くコバルトブルーの海に 赤茶けた岩肌の島、点在する真っ白なおもちゃ箱のような家々。島全体がジオラマのようなかわいらしさで、威圧するようなビルも 目に飛び込んでくるネオンサインも何も無い。
 簡素でこじんまりした滑走路に軽やかに着陸。ミコノス島の軽く肌をなぜる程度の風には潮の香りも人々が生活する臭いも無く、照りつける爽やかな陽射しと ただ ただ 抜けるような青空がひろがるだけでした。

 朝7時、やっと辿り着いたという安堵感と、何から始めようかという意気込みと、何がどうなるのかちょっと心配なのと、長旅の疲れ、時差ぼけ、睡眠不足、全てが入り混じってかなり興奮ぎみになっていました。
 プロペラ機からタラップで降り、ちっちゃい四角で白い空港施設へ歩いて入り、問題の荷物の受け取りです。ターンテーブルに見覚えのある黄色と青のベルトを巻いた鞄が見えた時は心底‘ホッ’としました。が、しかしこの先には この荷物をあけろと言われるかもしれない。そのときには
「マイ ダイエタリー セキュレタリー リーズン」
この言葉を念仏のように唱え続ける。と、覚悟していたのに、扉を出た直ぐ先にはタクシーの姿が・・・。
 なんの検査も無く、パスポートも求められず、そこは既にリゾート地ミコノスでした。

 空港に着いたら持参のワイシャツに着替え、ネクタイをしめジャケットを羽織り、出迎えの人を待とう(実際には着替えずポロシャツのままでしたが)。変な東洋人は私一人だし間違えは無いだろう。日本語以外は解らない、と伝えたところ「言葉は心配しなくていい」と言っていたので、もしかしたら出迎えにくる人が日本語を話せるのかもしれない。
 しかし、ミコノス空港に出迎えにきてくれているはずなのに30分たっても誰も来ない。
 がらんとしたロビーに一人取り残されてしまい、はじめての買い物がテレホンカード、ギリシャ語でテレカルタ。しかし電話は10回に1回位しか反応しないポンコツ、やっと呼び出し音がなっても誰もでない。
 ではタクシーで、と思い、 外に出ると30分たっても1台もこない。飛行機の到着、出発時間以外は、誰も用はないのだろう、タクシーがいないのも当然なのだろう。
 不安は少しずつ大きくなる、
“どうしたらいいのだろう、住所と電話番号があるのだからタクシーさえくれば直接行けるはずだ、が・・・”
 そして、到着後2時間以上も遅れて迎えに来たのは、ちょっと赤みがかったちぢれ髪の蒼い目の青年。さかんに遅れた訳を説明しているようでした。

 最初に会ったときは「ナイスチュー ミーチュー」ミコノスに着くまでは頭の中で日本語で考え、なんとか英語らしい物に置き換えて喋ろうと思っていましたが、目の前にいる彼がまくしたてる言葉を聞いて「イェース、オーケイ、プリーズ・・・」不思議と思い付く単語を並べ、相槌をうっているのでした。

 重い荷物2つを車に積み込み、せかされるように助手席へ。
「まず買い物に行こう。あなたは何が欲しいのか? 日本はいろんな魚や野菜がいっぱいあるだろうが、ここには果物以外たいした物はない。スーパーに寄るから見てみろ。」
 空港から5分くらいで着いたのは、やはり同じ青い窓の白い箱の家。10坪程の店内は日本で言えば地方の八百屋、1960年代にあった生まれ故郷、埼玉県幸手のスーパーコーヨーに似た佇まい。
 平積みされた野菜が10種類位、玉葱、じゃがいも、オクラ、白い丸茄子、太いきゅうり、ズッキーニ、トウモロコシ、人参、などなど。それとは別の棚に形の違うトマトが何種類か、葡萄、苺、など果物が並んでいました。
 しかしながら、どれもみずみずしく張りのある普段見なれた野菜でなく、疲れ果て どうにでもしてくれと言いたそうな物ばかり。このあと、同じ様な店を3件程回ったのですが、どこも大差なく とりあえず茄子、とうもろこし、胡瓜、人参、玉葱を買い求める。
 次はエーゲ海の新鮮な魚介類を欲しいと伝え市場はないのかいと聞いたところ、
「アテネにはあるがここには無い、11時30分頃魚屋に荷が届くがちょっとよっていくか。」
 今度は先程より少し大きな家、砂埃のあがる裏庭から倉庫のような店に到着、上蓋式の冷凍庫の中に蛸や見なれた冷凍の海老、足下の発砲スチロールには限り無く鯛に近い魚が3本、これだけ?
 “日の出前、赤銅色に日焼けし 幾重にも刻まれた横じわを持つ、彫りの深い顔。海の男達が美しいエーゲ海に小舟を漕ぎ出し、網を打ち、竿を繰出す。陽がのぼる頃、浜辺には大きなエプロンをした女房達が待ち受ける。魚を仕分けしながら、声高らかにそれらを商う。喧噪と雑踏の中、小気味よく魚や貝をレストランの主人が運び去る。小魚をねらって頭上にはカモメが飛び交い、背中を丸めた猫がじっとすきを伺う。”
 これだろう、こんな風景がこの島にはあるはずだ!・・・。

 11時30分再び訪れた魚屋には鯛のような魚が10枚位、黒鯛のような魚も同じ位、ハタ1枚、ムール貝と青柳のような貝が樽に一杯。そして鯛も黒鯛もハタも生暖かく ネトッとしてグッタッとしており、思わず‘ごめんなさい’と頭をさげて後ろ向きに走り出したい気分、しかし現実を見つめ直し魚は1枚ずつ、青柳もどき15個を買い求めました。
 とりあえずの食材を仕入れ、いざキッチンスタジアムへ・・

  ミコノス島に信号はありません。車輌は右側通行。島を訪れる観光客の為にレンタルバイクがあり、坂が多くミコノスタウンという中心地と大きなビーチや観光スポットが離れているため、二人乗りのヘルメットをかぶらない沢山のバイク族が疾走しています。スズキ、ヤマハ、ホンダ、ダイハツ、トヨタ、車もバイクも数多く日本製が見受けられ、我が相方も左ハンドル、ダイハツの真っ赤なRV車。
 車体も車内も砂ぼこりにまみれ、強い陽射しの照り返しを幾分やわらげていました。空港から右へ左へ小高い丘をいくつか越え、視界が開けた丘の頂きに到着。
 目の前にはトルコブルーの海とその海の色にほんの少し白い絵の具を混ぜたような澄んだ青い空。水平線の所々に小さな島々。左の落ち込んだ崖の向こうの入り江にはクルーザーが浮かび、砂浜の白い色から沖へ向かって段々と濃いブルーへと深みを増していく。透明な青のセロハンを、色を濃くしながら重ね、少しずつずらしたようなグラデュエーション。
「アイ ネヴァー シーン サッチア ビューティフル ワールド!」

 車1台がやっと通れる路を岬の突端目指して進むと、急な下り坂の先に青い窓の白い家、三方にエーゲ海を見下ろす絶景の目的地に到着したのでした。